シェイクスピアの喜劇『十二夜』を読む(第4回)テラさん教授の読書の楽しみ(お話:寺島悦恩 セリフ:安野由記子&宮ヶ原千絵)
『十二夜』(Twelfth Night)という、シェイクスピアの喜劇の中でも最も人気 があり、シェイクスピア円熟期の素晴らしいお芝居の2回目です。 翻訳は、主に、ちくま文庫の松岡和子さんの訳を使いたいと思います。 このお芝居は1600 年から1601年頃に書かれました。 ちょうどこの頃、シェイクスピアは悲劇の名作『ハムレット』を書いていま すから、もう天才としか言いようがないわけです。 悲劇の『リア王』や『マクベス』はもう少し後に書かれました。 ちなみに、『じゃじゃ馬馴らし』は1593年頃に書かれたと考えられていま す。 前回も申しましたように、十二夜とはクリスマスから数えて12 日目、つま り、いわゆる東方の三博士がキリストの誕生を祝いに訪れる公現(エピファニ ー)の祝日(1 月6 日)の夜に催されるお祭りのことですから、ちょうど、この冬 を迎えた時期に読んだり、見たりするにふさわしいお芝居です。 また、この作品は、1601 年1月6 日、エリザベス一世がイタリアのオーシー ノ公爵を宮廷に招いた折の宴会の余興として初演されたものだという説もあり ますが、この作品は、現実から切り離された、楽しいロマンティクコメディで す。しかし、それだけには終わらず、人間にとっての普遍的な問題を考えさせ てくれるお芝居でもあります。 この芝居の冒頭第一幕、第一場は、恋に恋するオーシーノ公爵の部屋の場面 です。オーシーノは行動していません。安野さんもお好きで、これまでもよく 引き合いに出して来ましたトレヴァー・ナン監督、1996 年のイギリス映画で も、オーシーノは長椅子に寝転んで気だるい姿で描かれています。怪我をして オリビアに一目惚れ、恋の病にとりつかれたこういうところ、恋煩いの姿 は、非常に大袈裟にいえば、死に傾斜しているともいえます。ここがうまい。 この芝居は、明らかに喜劇なんですが、芝居の始まりにおいて、死と生の対 比を実にうまく見せていて、非常に深みを出していますね。 さて、脱線しますが、恋煩いをテーマにした日本の落語といえば、みなさん ご存知の、例えば『崇徳院』というのがあります。 今の時代はすごいですね。YouTubeで、関西の天才(ちゃんと韻を踏んでい ます)、桂枝雀さんのものも簡単に楽しめます。ありがたい時代です。名人古 今亭志ん朝さんのもYouTube で楽しめます。 枝雀さんは、「笑いとは緊張と緩和である」と言い、身振り手振り、面白さ の一つの極限をとことん追求した落語家さんですね。今更ですが、もう大天 才。 上片落語ですから、大阪は舟場の、とある大変な大店が舞台です。二十日 前、その若旦那が高津神社のお参りに行った。お参りの帰りに今戸の茶店に寄 った。すると、どこかの大店の水も垂れるようなお嬢さんに出会ってしまう。 さあ一目惚れの恋煩い。頭はボー、煙がボー。寝込んでしまう。食べ物も喉を とおらないから死んでしまうかもしれないという様子。二十日前ですからもう 大変ですね。本当に危ない。 ここまでは聞き出すことができた、お出入りの熊五郎さん。大旦那から探し てくれと言われるが、皆目、見当がつかない。わけも分からず探し回る。手が かりは、その水も垂れるようなお嬢さんが美しい料紙に書き残した、百人一首 の崇徳院の和歌の上の句「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」だけ。これをのべ つ幕なし、声に出しながら、熊五郎さん、風呂屋、床屋をただただ回るだけ。 もう。これじゃ、若旦那よりもこちらの命が危ないというほどへとへと。最後 はめでたくお相手のお嬢さんの大店にお出入りの職人さんに出会ってめでた し、めでたしとなりますが。 まあ、枝雀さん、本当に汗だくだくの一生懸命のおしゃべりです。 古今亭志ん朝さんのYouTube版ですと、志ん朝さんは、枕で、「夏痩せと答 えてあとは涙かな」という一句を出しています。東京の落語ですから、上野の 清水さんにお参りする。やはり二十日前のこと。大変です。寝ついてしまって いて、もう五日ほどしかもたないじゃないかというお医者さんの見立て。恋煩 いは死に傾斜しているわけです。 さあ、大変長い長い脱線から『十二夜』の第一幕、第一場に戻りますが、本 当にこのお芝居の冒頭の、オーシーノのよく知られた台詞は興味深い。 音楽が恋を育む食べ物なら、続けてくれ。 嫌というほど聴かせてくれ。そうすれば食傷して 食欲は衰え、やがて死に絶えるだろう。 今のところをもう一度。絶え入るような調べだった。 ああ、この耳に甘く響く。 スミレ咲く丘に息づく風が 香りを盗み運んでくるようだ。もういい、やめろ。 もうさっきほど甘くは響かない。 いかにも気まぐれな公爵ですが、お抱えの家臣が、狩りにでもお出かけにな っては、鹿狩りにでも、と提案すると、この公爵、それならもうしっかりこの 自分の心は獲物にされてしまっていると地口を使って語る。そうして、 ああ、この目が初めてオリヴィアを見たとき、 空気が清められ疫病の毒が消されるような気がした。 その途端、俺は鹿に変えられ、 欲望が、残忍で猛々しい猟犬のように 俺を駆り立てている。 本当に、ここは難しいですが、素晴らしい詩、ポエムになっています。下敷き、 日本の言い方なら本歌取りの本歌がギリシャ神話。 狩人のアクタイオンが、水浴中の女神ダイアナを見たため女神の怒りを買っ て鹿に変えられたというお話。さらに、鹿になったアクタイオンは自分の猟犬に 噛み殺されたという残忍なお話。 つまり、このオーシーノの台詞の後半部「その途端・・・・」は、自分はもは やオリヴィア姫の獲物、捕われた鹿のようなものだ。しかも、欲望は自分を食い ちぎる猟犬のごとく猛々しく燃え盛っている。ギリシャ神話の中の鹿でもあり、 猟犬でもあると言っている。報われないわけだから、自分で自分を食い尽くす、 凄まじいイメージ。 すぐに愛するオリビア姫のもとにやった使いの者が戻って来ますが、彼が色 良い返事を持ってくるはずはありません。使いの者はオリビア姫に会うことも できなかったのです。前回も言いましたように、オリビア姫は、兄上が亡くな ったため、七年間の喪に服していることがここでわかるのです。 今も全世界がコロナで悩んでいて、ワクチンの接種は進みましたが、なかな か終息というわけにもいきません。 同じように、このシェイクスピアの生きた時代も、疫病、特にペストがしょ っちゅう流行っていた時代です。 こういうところからも、オーシーノの台詞は興味深いですね。 ああ、この目が初めてオリヴィアを見たとき、 空気が清められ疫病の毒が消されるような気がした。 さあ一幕二場です。大しけに見舞われた船が難破、若く美しい女性ヴァイオ ラが、架空の国イリリアの海岸に船長たちとともに命からがらたどりつくとこ ろになります。 同じ船に乗っていた双子の兄セバスチャンはことによると死んでしまったか もしれないとヴァイオラは不安な思いでいます。 ヴァイオラは船長にこう尋ねます。 どうしたらいいの、こんなイリリアで。 お兄様は天の楽園エリジウムにいるというのに、 でも、兄はもしかしたら運良く溺れずにすんだかもしれない。 音の似ているイリリアとエリジウムを並べ、自分は生きていて、生の世界に いるが、兄は死んで黄泉の国にいるかもしれないと対比させています。 ここは、ちょうど兄の死を悼んでいるオリビア姫の状況とうまく響きあって いて、うまい設定だなと思います。 先ほども言いましたが、芝居の始まりにおいて、シェイクスピアは生と死の 対比を実にうまく見せていますね。そうして、ヴァイオラの生き生きとした生 命力が際立つようにしているんですね。生命は<攻め>に通じる。Aggressive なんですね。 こうした見事なお芝居の始まりです。 自立心が強く、生命力にみちたヴァイオラは、このイリリア国で生きていく ため、男装し、セザーリオと名前を変え、領主オーシーノ公爵に仕えることで たくましく生きていきます。 Viola という名前は、健康で、Vital(生き生きとした、生命力のある)を思わ せるようないい名前です。楽器のビオラ、可憐なすみれのviolet も連想させ ますが。 さて、無事、オーシーノ公爵に仕えることができた男装のヴァイオラです が、すぐに女伯爵オリビア姫への恋の使者の役目がヴァイオラに回って来ま す。今までの使者じゃ役に立たない。では、この若く美しいヴァイオラ、つま りセザーリオを使者にすれば何とか現状を打破できるとのオーシーノの読み。 しかし、ヴァイオラにとってこれは厄介な仕事です。ヴァイオラはオーシー ノ公爵に一目惚れだからです。 さあ、1幕5場、いよいよヴァイオラが使者としてオリビア姫に会う。おつ きのものが多くてヴァイオラが面食らっているところから。音声でお楽しみください (以下省略) (ラジオ川越2021/11/23 放送分)