ホフマン『くるみ割り人形とねずみの王様』後編・テラさん教授の読書の楽しみ:(お話:寺島悦恩)
前回、なかなかホフマンの原作は不気味なところがあると申しましたが、まず、こういうところがあります。 さて、そのクリスマスイブの夜もずいぶんふけ、まもなく12時という時刻になりました。 ドロッセルマイヤーさんは、とっくに帰り、兄のフリッツも寝室に引き取っていましたが、妹のマリーだけは、もうちょっとおもちゃのそばにいたいというので、お母さんは、燃えているロウソクは全部消し、天井から垂れ下がったランプだけを残し、やはり、寝室に引き取りました。 マリーは、一人になると、大事にハンカチに包んで腕に抱いていた、負傷した、くるみ割り人形を机の上に置き、傷はどうなっているのか、心配そうに調べてみることにしました。 くるみ割り人形は、微笑しながらも青白い顔をしていたので、なぐさめながら、ドロッセルマイヤーおじさんに頼めば、歯も入れてくれるわ、と言いかけたのですが、ドロッセルマイヤーおじさんの名前を口にしたとたん、くるみ割り人形の口はいやらしくゆがみ、目の中から緑色のキラキラ光る針のようなものが飛び出した。 これにはマリーはギョッとしたのですが、すぐにまた寂しげに微笑んでいる顔に戻ったので、隙間風にランプの焔が揺れて、そう見えたのだわと思い直したのです。 けれども、ようやくマリーが寝室へ行こうとした時、暖炉や椅子や戸棚の後ろで、ささやいたり、ガサガサという音がしはじめたりし、おまけに壁時計が高い音を出してうなり始めたのです。 今や、マリーは、まったくもって悪夢のなかにいるようなのです。イブというのに、不気味な一夜です。 でも、壁時計は高い音を出してうなり始めただけで、壁時計は時を打つことができません。なぜなら、いつの間にか、壁時計の上には大きな金色のフクロウが座り、翼をたらして、壁時計全体をおおってしまっているのですから。 おまけに、そのフクロウときたら、いやらしい猫そっくりの顔を曲がった嘴とともにグッとこちらに突き出しています。 壁時計のうなり声はますます高くなり、こう言っているのが聞き取れます。 時計、時計、たくさんの時計はみんな静かにブンブンいわねばならぬこっそりブン、ブンネズミの王様はそりゃいい耳してるープル、プループン、プン――さあ、やつに昔の歌をうたってやれープル、プループン、プン小さな鐘を打ち鳴らせ、打ち鳴らせもうすぐやつもおだぶつさ! そうして、本当に陰にこもった音で、夜中の12時が鳴り、気がつけば、いつの間にか壁時計の上に座っているのは、フクロウではなくドロッセルマイヤーさんだったのです。 おまけに、ドロッセルマイヤーさんは黄色い上着のすそを翼のようにだらりとたらしているのですから、気味の悪いことと言ったら、マリーは驚いて、すんでのところで逃げ出すところでした。 まだまだ序の口、こんなことではおわりません。シュタールバウム家は、今や本当に不気味で怪奇な館に変わってしまっているのです。 やがて、騒々しい音がいたるところでしはじめ、何千何万という小さな足が歩き回ったり走り回ったりするような音が聞こえ、そのうち、ゆか板の隙間からやはり何千何万という小さな明かりがのぞいておりました。 ところが、この小さな明かりは何とキラキラ光るネズミの目だったのです。おびただしいネズミたちが飛び出してきて、部屋の中をことこと動いたり、ぴょんぴょん跳ね回ったりし始め、そのうちに、このネズミたちはまるで兵士たちのように隊列を組んだのです。 もう、普通なら、これだけでぎゃーつと叫びたくなるほどですが、マリーは、ほかの子供たちのように生まれつきネズミが嫌いというわけではなかったので、 ネズミたちが隊列を組んだ様子を面白く思ったというのです。 さて、ここで猫とネズミについてお話しておきましょう。猫とネズミは、テレビアニメ「トムとジェリー」もそうですが、大人気のテーマです。 そもそも猫というのは、「船乗り猫」というのがいるぐらいで、船乗りにとっては守り主だったのです。神様ですね。日本でもそうです。 木の船でしたらネズミにかじられたら浸水、沈没になりかねません。 また、今もコロナがおさまらず、大変ですが、ネズミはペスト菌を運ぶとも思われていたので、ネズミを獲ってくれる猫は船乗りにとって守り主なのですね。 むろん、この『くるみ割り人形とねずみの王様』では、猫そっくりのいやらしい顔のフクロウなどといった表現で猫が出てくる程度で、まったくネズミが主役です。うまいですよね。ネズミだけでこれほどの想像力を駆使できたんですから。 作者ホフマンは、一方で、前回も申した、あの『牡猫ムルの人生観』の作者なのですから、大変な才人だということがわかります。 まだこれから登場してくるのですが、『くるみ割り人形とねずみの王様』では、化け猫ならぬ、なかなか恐怖の大ネズミを作り出したんですから。 さあ、怖いですよ。作者ホフマンも言っています。 勇気ある兄のフリッツに似た読者のなかのフリッツ君ですら、マリーが今見ているものを見たならば、おそらく逃げだしたでしょう。いやそれどころか、すばやくベッドの中に飛び込んで、布団を必要以上に耳の上までひっかぶったことでしょう。ああ!マリーにはそれすら出来なかったのですと! マリーのすぐ足もとで、地獄の力に駆りたてられたように砂と石灰と床石とが噴き出したかと思うと、七つのキラキラ光る冠をかぶった七つの頭をもつネズミの王様が、恐ろしく、シュッ、シュッ、ピー、ピーといいながら床から現われたのです。間もなく続いて体のほうも全部出てきました。 するとネズミの全軍は、この七つの宝冠で飾られた大きなネズミの王様に対し、チュウ、チュウ、チュウと声をそろえて三度大きな歓声をあげたというのです。 さて、我らが日本でもネズミあるいは大ネズミを巡る面白いお話や逸話はいっぱいあります。 例えば、室町時代には、「鼠草子」というものがいくつも描かれましたし、大鼠ということでは、平安末期三井寺の僧頼豪が化け、延暦寺の経典などをかじったという、ふてぶてしい「鉄鼠」という大ネズミもいました。 と言って、ネズミという動物は子孫繁栄や家運隆盛を象徴するものとして古来、吉祥、縁起の良い動物とされてきました。 ですから、今年をネズミの話で締めくくるのは、新しい年を迎える年の瀬にふさわしいことだと思います。