ウクライナ紛争とシェークスピアの悲劇『オセロー』~寺島悦恩氏の読書と絵画の楽しみ

嘘とフェイクとプロパガンダ
かつては、綸言汗の如しと言って、天子の言葉、為政者、トップに立つものの言葉は、汗が体内に戻らないように、取り消すことができない、ということで、為政者の言葉には厳しい倫理があったはずなのだが、今や、口から出まかせ、嘘はつき放題となっているように思える。
今回のウクライナ紛争も、都合が悪くなれば、つまり、自らの利益にならないとなれば、フェイクニュースだと言いぬけようとするところがある。
こういう問題を考えるとき、格好の素材がシェークスピアの悲劇『オセロー』です。
恐ろしい話です。『オセロー』の冒頭一幕一場で、ロデリーゴーにという言葉を使わせている。
恐ろしいというのは、この芝居は、オセローを罠にかける話だからですstringsを持ってきたのは実にうまい。このお芝居は「欺くこと」の芝居で、だから、罠の仕掛けとしての網、そうした網の紐を見事に連想させてくれるのです。種明かしは一番最後で。

第一場 ヴェニスの街頭。イアーゴーとロデリーゴー登場。ロデリーゴー もういい、もうやめてくれ。お前は、まるで俺の財布の紐を自分が握っているかのように俺の金を使っておきながら、もう一方ではこの事を知っていたなんていうのは怪しからん話だよ、イアーゴー。イアーゴー 嫌になるなあ、全く。俺が何か言おうとしてもあんたは聞こうとしなかったじゃないか。こんどの事は寝耳に水同然で全然知らなかったんだ。嘘だと思うなら、勝手にしてくれ。ロデリーゴー あの男に怨みがある、と言っていたじゃないか。イアーゴー あるとも、大ありなんだ。俺をあいつの副官してやろうというんで、ヴェニスのお偉方が三人もあいつの所にわざわざ頭をさげて頼みに行ってくれたんだ。俺にそれだけの値打があり、副官という地位にふさわしい男だってことは誰が何といったって事実だからな。ところがあいつときたら、頼みを
聴いてやったらこけんに関わる、自説がまげられるとでも思ったらしく、おっそろしく軍隊用語を並べたてて偉そうな長談義をおっ始めてまんまと三人を煙に巻いてしまったんだ。とどのつまりが、折角の推薦者たちの依頼も却下というわけだ。あいつは、その時、「副官の人選は自分で既にすませておきました」と言ったそうだ。どんな野郎が副官になったと思う?なんと、それが戦術の大理論家ときてるんだ。フィレンツエ生まれの確かマイケル・キャシオーとかいう男で、綺麗な女房をもらったためにうだつがあがらない奴なんだ。戦場に出て軍隊の指揮をまだ一度もとったことがないし、いや、そもそも部隊の編成のことも知らんというのだから、まるで機織工と変わりはないんだ。 但し、机上の理論は別だそうで、そういった点だけなら長衣を着た元老院の諸公だって結構そいつと同じくらい偉そうな議論が出来るってわけさ。軍人精神とは実戦にあらずしてお喋りにあり、と思っているらしいんで世話はないや。
とにかくそいつが選ばれ、ローズ島であれ、サイプラス島であれ、その他キリスト教徒の住む所であれ、異教徒の住む所であれ、様々の国々で実戦の腕前をちゃんと大将の目の前で発揮した俺の方が、いわば貸し借り勘定の旨い、算盤の名人のような奴に見事に出し抜かれてしまったというわけだ。あいつは立派に副官殿にご就任、こちとらは大将閣下の騎手、いやはやなんて
こったというところ。

モーパッサンに、そのものずばり、『紐(ひも)』という短編があります。
とても嫌な、暗い、一本の紐と財布の話です。
ブレオーテ村の農夫オーシュコルンさんは始末屋でした。もったいないと思い、リューマチの痛みがあるのに、わざわざ腰を曲げ、ゴデルヴィルの市で一本のひもを拾ったのです。それを、仲が悪く、一悶着起こしたことのある馬具屋のマランダンが見ていた。
この市は、牛や鶏なども売っている大賑わいの市。ちょうど、その日、そのあたりでウールブレークさんが500フラン入りの黒革財布を落としため、農夫オーシュコルンさんが疑われる羽目になった。  
巡査が来て、町役場まで連れて行かれ、そこで拾った一本のひもを取り出して見せたのですが信じてもらえません。 
ところが、翌日財布は見つかったのですが、オーシュコルンさんは畑を耕すことも忘れ、濡れ衣を着せられたこと、ひどい仕打ちにあったことをみんなに話そうとした。  
次の火曜日も、オーシュコルンさんは市に出かけ、この事件をみんなに話そうとした。
共謀者がいて、その共謀者が財布を返しただけだという話にまでなっていて自分の悔しさを受け入れてくれない。そこには、オーシュコルンさんのなかにもあるノルマンディー人特有のずるさがそうさせているのだとモーパッサンは書いています。オーシュコルンさんは、不満と怒り、憤怒と狼狽から衰弱し、その年の暮れにはついに亡くなってしまうという短編。
 青柳瑞穂さんの名訳によると、臨終のうわ言は、「紐切でがす・・・ただの紐切でがす・・・ほれ、これでがすよ、町長さん」。

さて、シェイクスピアの『オセロー』ですが、「紐」がなぜ面白いかというと、このイアーゴーの陰謀話の下敷きには、あのギリシャローマ神話の愛と美の女神ヴィーナスと恋人の軍神マルス、それにヴィーナスの夫足の悪いウルカヌスの話があるという解釈がある。
ウルカヌスは鍛冶屋の神であり、金細工師でもある。
ウルカヌスは自分の女房ヴィーナスと軍神マルスの関係に腹が立って仕方がない。それで、黄金の繊細な網をかけて一緒にいた二人を捕まえ、他の神々の
笑いものにした。
 この話は、16、17世紀の観客はよく知っていて、イアーゴーは、ウルカヌス的なんです。むろん、イアーゴーはどうしようもない悪人ですが。だから、冒頭の紐というのが面白いのです。

と言って、これで終わると後味が悪いので、一幕三場をみましょう。
胸のすく、まったくいい場面。まことに不快なマキャベリアン、イアゴーに比較すること自体失礼千万だが、オセローの人格の高貴さが屹立する場面。
イアゴーの口車に乗り、娘を奪われたと妄想、怒り狂う、デズデモーナの父にして元老院議員たるブラバンショー相手に、公爵や元老院議員たちの前で、オセローは堂々の論陣を張る。
東洋で言えば、まさしく「至誠にして動かざる者は、未だ之れ有らざるなり」というものだね。麗しきデズデモーナが惚れて動いたのも彼の至誠ゆえだからね。