あけましておめでとうございます。
昨年の最終回で、ホフマン原作『くるみ割り人形』に出てくる怪物のような大ネズのお話をし、また猫とネズミのお話をいたしました。
今回は、夏目漱石の大変に長い小説『吾輩は猫である』のなかから、苦沙味先生のお宅で飼われている、名前のない猫くんのお正月にちなんだ部分をお話ししたいと思います。
人間がお正月に食べる雑煮というものをちょっと食べてみようかと好奇心を持った猫くん、さあどうなるでしょうか。とにかく、はじめて食べるものに対し、猫くんがどれほどためらっているか、その心のうちを見事に漱石は描き出す。また、この危機の中で四つの真理を会得したとまで書く。
吾輩も一寸雑煮が食って見たくなった。
吾輩は猫ではあるが大抵のものは食う。車屋の黒の様に横丁の肴屋迄遠征をする気力はないし、新道の二絃琴の師匠のとこの三毛のように贅沢は無論云える身分でない。
従って存外きらいは少ない方だ。
小供の食いこぼしたパンも食うし、餅菓子のアンもなめる。香の物はすこぶるまずいが経験のため沢庵を二切ばかりやった事がある。食って見ると妙なもので、大抵のものは食える。あれは嫌だ、是は嫌だと云うのは贅沢な我儘で、とうてい教師の家に居る猫などの口にすべき所でない。
少し省略して・・・
吾輩の様に牡蠣的主人を持つ身の上ではとてもそんな気は出ない。何でもいい、食えさえすれば、という気になるのも境遇のしからしむる所であろう。だから今雑煮が食いたくなったのも決して贅沢の結果ではない、何でも食える時に食って置こうという考えから、主人の食いあました雑煮がもしや台所に残っていはすまいかと思い出したからである。……台所へ廻って見る。 今朝見た通りの餅が、今朝見た通りの色で碗の底に膠着して居る。白状するが餅というものは今迄一返も口に入れた事がない。
見るとうまそうにもあるし、又少しは気味がわるくもある。
前足で上にかかっている菜っ葉を掻き寄せる。爪を見ると餅の上皮が引き掛ってねばねばする。嗅いで見ると釜の底の飯を御櫃へ移す時の様な香がする。
食おうかな、やめようかな、とあたりを見廻す。幸か不幸か誰も居ない。
食うとすれば今だ。もし此機をはずすと来年迄は餅というものの味を知らずに暮してしまわねばならぬ。吾輩はこのせつなに猫ながら一の真理を感得した。
「得難き機会は凡ての動物をして、好まざる事をも敢てせしむ」
吾輩は実を云うとそんなに雑煮を食いたくはないのである。否、椀底(わんてい)の様子を熟視すればする程気味が悪くなって、食うのがいやになったのである。
所が誰も来ない、いくらちゅうちょしていても誰も来ない。早く食わぬか食わぬかと催促されるような心持がする。吾輩は腕の中を覗き込みながら、早く誰か来てくれればいいと念じた。やはり誰も来てくれない。
吾輩はとうとう雑煮を食わなければならぬ。最後にからだ全体の重量を椀の底へ落す様にして、あぐりと餅の角を一寸(いっすん)ばかり食い込んだ。
これくらい力を込めて食い付いたのだから、大抵なものなら噛み切れる訳だが、驚いた! もうよかろうと思って歯を引こうとすると引けない。もう一返噛み直そうとすると動きがとれない。餅は魔物だなとかんづいた時は既に遅かった。沼へでも落ちた人が足を抜こうとあせるたびにぶくぶく沈むように、噛めば噛むほど口が重くなる、歯が動かなくなる。歯答えはあるが、歯答えがあるだけでどうしても始末をつける事が出来ない。
歯が餅の肉に吸収されて、抜けるように痛い。早く食い切って逃げないと御三が来る。小供の歌もやんだようだ、きっと台所へ馳け出して来るに相違ない。
歯は餅の中にぶら下って居る。ええ面倒だと両足を一度に使う。すると不思議なことに此時だけは後足(あとあし)二本で立つ事が出来た。何だか猫でないような感じがする。猫であろうが、あるまいがこうなった日にゃあ構うものか、何でも餅の魔が落ちるまでやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔中引っ掻き廻す。
前足の運動が猛烈なのでややともすると中心を失って倒れかかる。倒れかかるたびに後足(あとあし)で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいるわけにも行かんので、台所中あちら、こちらと飛んで廻る。我ながらよくこんなに器用にたっていられたものだと思う。
ここで第三の真理を猫は会得する。「危きに臨めば平常なし能わざる所のものをなしあたう。之を天祐という」。
吾輩が一生懸命餅の魔と戦っていると、何だか足音がして奥より人が来る様なけはいである。ここで人に来られては大変だと思って、いよいよ躍起となって台所をかけ廻る。足音はだんだん近付いてくる。
「あら猫が御雑煮を食べて踊を踊って居る」と大きな声。此声を第一に聞きつけたのが御三である。細君は縮緬の紋付で「いやな猫ねえ」と仰せられる。主人さえ書斎から出て来て「此馬鹿野郎」といった。面白い面白いと云うのは小供ばかりである。そうしてみんな申し合せた様にげらげら笑って居る。
腹は立つ、苦しくはある、踊りはやめる訳にゆかぬ、弱った。
人間の同情に乏しい実行も大分見てきたが、この時恨めしく感じた事はなかった。
『吾輩は猫である』は見事な風刺文学なので、絶えずこのように人間は猫と比較される。風刺文学ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』ならば、馬と人間が比較される。
さて、前回のネズミを取る猫の延長で話をしますと、漱石の『吾輩は猫である』のなかで、車屋で飼われている、栄養満点で、でかい黒猫の話が出てきます。
苦沙味先生のこの猫は、うまくお世辞を言っておだてながら、黒猫くんから面白い武勇伝を引き出すのですが。
車屋の黒猫君の呪縛するがごとき一睨みでネズミ君は凍りつくだろうと。また、君はあまり鼠を捕(と)るのが名人で鼠ばかり食うものだから そんなに肥って色つやが善いのだろうと。
ところが、黒の御機嫌をとるためのこの質問は不思議にも反対の結果を生み出した。
考(かん)げえるとつまらねえ。いくら稼いで鼠をとったってえ人間ほどふてえ奴は世の中にいねえぜ、と黒猫は言い出した。人のとった鼠をみんな取り上げやがって交番へ持って行きゃあがる。交番じゃ誰が捕(と)ったか分らねえからそのたんびに五銭ずつくれるじゃねえか。