谷川俊太郎の『かっぱ』芥川龍之介の『河童』その2:テラさん教授の読書の楽しみ(お話:寺島悦恩)

前回は、詩人谷川俊太郎さんの『ことばあそびうた』から「かっぱ」という、短い、ユーモラスな詩をご紹介し、柳田國男の『遠野物語』のカッパに触れ、最後に芥川龍之介の短編『河童』の冒頭部分をご紹介して終わりました。
さて、その芥川龍之介の『河童』ですが、主人公は、上高地、河童橋近く、梓川の谷あいのところでお昼を食べていますと、河童に遭遇、後でバッグという名であることがわかるのですが、この河童を捕まえようとしつこく追いかけ主人公は、穴に落っこち、気絶してしまうというのが、この短編のはじまりでした。
この穴に落っこちるというのは、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』にもよく似ていますし、日本の昔話の『おむすびころりん』にも似ています。

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 前にも触れましたが、『不思議の国のアリス』の原型となった物語のタイトルは『地下の国のアリス』でした。
 『おむすびころりん』の前半のストーリーはと言いますと皆さんよくご存知のように,
正直で働き者のおじいさんが、山で木を切っていた。
昼になったので、おばあさんが作ったオムスビ2つを食べようと包みを開けますが、うっかりおむすびを転がしてしまい、木の下の穴に落としてしまった。     
すると、穴の中から何やら可愛らしい歌声が聞こえてきたので、おじいさんはもう一つのおむすびを穴の中に転がした。聞こえてきた歌に夢中になっていると、おじいさんまで穴の中に転がり落ちてしまった。  
おじいさんが落ちた所はネズミの屋敷で、おじいさんはネズミたちの餅つき踊りで熱烈に歓迎され、きなこ餅をたくさん御馳走になった。帰りには、小判の詰まったお重をお土産にもらった。

というものです。
芥川龍之介の『河童』の主人公が落ちたところも、やはり、河童の国でした。
気がつくと、大勢の河童に取り囲まれ、チャックという名の鼻眼鏡をかけた河童の医者が、仰向けに倒れた主人公の胸に聴診器を当てています。
この河童の国の文明の程度は、人間の国の文明とさほど違わず、医者のチャックの家には、小さいピアノもあるし、壁には銅版画もかかっているという具合です。
ただ、肝腎の家をはじめ、テーブルや椅子の寸法も河童の身長に合わせてあるため、子供の部屋に入れられたようにそれだけは不便だったと主人公は述べています。
これはスウィフトの『ガリヴァー旅行記』の書き方に似ています。ガリヴァーが最初に行く、リリパット、小人国の小人は、人間の十二分の一の大きさであると作者スウィフトははっきりと書いてくれていますが、
さて、ここまできて、芥川は次のように河童の説明に移ります。

河童はいまだに実在するかどうかも疑問になつてゐる動物です。が、それは僕自身が彼等の間に住んでゐた以上、少しも疑ふ余地はない筈です。では又どう云ふ動物かと云へば、頭に短い毛のあるのは勿論、手足に水掻きのついていることも「水虎考略」などに出てゐるのと著しい違ひはありません。身長もざっと一メートルを越えるか越えぬ位でせう。体重は医者のチャックによれば、二十ポンドから三十ポンドまで、まれには五十何ポンド位の大河童もあると言っていました。
それから頭のまん中には楕円形の皿があり、その又皿は年齢により、だんだん固さを加へるやうです。現に年をとつたバッグの皿は若いチャックの皿などとは全然手ざはりも違ふのです。
しかし一番不思議なのは河童の皮膚の色のことでせう。
河童は我々人間のやうに一定の皮膚の色を持ってゐません。何でもその周囲の色と同じ色に変ってしまふ、ーたとへば草の中にゐる時には草のやうに緑色に変り、岩の上にある時には岩のやうに灰色に変るのです。これは勿論河童に限らず、カメレオンにもあることです。
或は河童は皮膚組織の上に何かカメレオンに近い所を持つてゐるのかも知れません。僕はこの事実を発見した時、西国の河童は緑色であり、東北の河童は赤いと云ふ民俗学上の記録を思ひ出しました。
のみならずバッグを追ひかける時、突然どこへ行ったのか、見えなくなったことを思ひ出しました。

保護色になっているというのです。

しかも河童は皮膚の下に余程厚い脂肪を持つてゐると見え、この地下の国の温度は比較的低いのにも関らず、(平均華氏五十度前後です。) 着物と云ふものを知らずにゐるのです。

華氏五十度と言いますから摂氏10度。


勿論どの河童のめがねをかけたり、巻煙草の箱を携へたり、財布を持つたりはしてゐるでせう。しかし河童はカンガルーのやうに腹に袋を持ってゐますから、それ等のものをしまふ時にも格別不便はしないのです。



夏目漱石は処女作『吾輩は猫である』の最終回第11回で、珍野苦沙味先生のところに主な登場人物がみんな集まってきます。
つまるところ、俺が俺がというもの、個人の自覚心、個性の発達、自由などなど、個人が強くなることによって、これまでの社会、家庭、文化など従来の秩序は壊れ、世の中が内部から崩壊するかもしれないと大胆な未来予測を述べてもいます。
苦沙弥先生の同窓であるヤギヒゲの八木独仙は、このような面白い言い方をしています。

昔は孔子がたった一人だったから孔子も幅をきかしたのだが、今は孔子が幾人もいる。ことによると天下がことごとく孔子かも知れない。だからおれは孔子だよと威張っても押しが利かない。押しが利かないから不平が出る。人は自由を欲して自由を得たが、自由を得た結果不自由を感じて困っている。 

 個性の自由は、西洋がもたらした文明の恩恵で、それこそ社会発展のバロメーターだが、それが社会そのものを、個人をも破壊しかねないと。
例の自己愛もそう。強すぎる自己愛が自己を壊す。

一方、芥川龍之介の『河童』には、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』に比べても、時に読む人にさらにより不快感をもたらす暗い風刺小説、デストピアという側面があります。デストピアというのはユートピアの反対で死deathと合成された言葉です。
機械化、オートメーション化が進み、余った河童労働者たちには有毒ガスを嗅がせ、殺し、肉にして食べるなどという、まるでナチスドイツを予言しているかのような実に残忍な箇所もあります。
芥川龍之介の『河童』は、様々な問題を含んでいますが、ここでは、動物ということで、ヤギも出てきましたから、河童の国の仮想敵国がカワウソの国だという面白い箇所についておしゃべりして締めくくろうと思います。
例えば、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の第1篇リリパットという小人国が隣国ブレフスキュ国との争う話を彷彿とさせます。
河童の敵がカワウソだということは、博識の芥川が典拠とした江戸時代の『水虎攻略』、それから柳田國男の『山島民譚集』にも出てこない新事実だと芥川は書いています。
そうして、この戦いで36万9500匹の河童が戦死したが、敵のカワウソ国の戦死者に比べれば、その数はたいしたことではなく、おかげで、河童の国の毛皮はほとんどカワウソだとまで書いています。
ともかく荒唐無稽、相当に暗い人間社会、未来社会を35歳の芥川は、1927年の死の年に描いた。
芥川の命日7月24日は一般に「河童忌」と呼ばれます。「我鬼忌」「澄江堂忌」とも言いますが。

さて、利己、個性ということで漱石も悩み、エゴイズム、エリーティズムということで芥川も悩んだが、ひるがえって、21世紀の特に若い方々を見ていると、利己主義でなく、非常に利他主義の方向に動いているようにも思えます。
環境問題もあり、ボランティア活動も含め、他者のことを考えるという、「なんとかファースト」ではすまないことがわかっておられるように思います。